2011年08月09日

キルギスに本当に明かりを灯す人〜『明かりを灯す人』

 キルギスの監督、アクタン・アリム・クバト(ロシア名・アクタン・アブディカリコフ)は、本当に「成熟した視線」を持っている人。すごいなあ、と思う。貧しい国の人として、表現の自由が厳しかった時代のサバイバーとして、いいたいことはたくさんあるはずなのだが、「怒り」も「恨み」もほぼ感じられない。深い深いユーモアと、キルギスの自然描写に映画は多くのエネルギーを割かれている。それだけでも見る価値があると思う。そんな彼が、今回は主演もした。「キルギスの寅さん」みたいな、電気職人の話である。

 小さな村で、彼は村の唯一の電気工なのだが(ひとりいればこと足りるような小さな村だ)、貧しくて電気代金の払えない人に、彼はメーターを細工してやり、金を払わなくてもいいようにしてやるのだ。キルギスの電気会社は国営だから、彼は国から電気を盗んでいるため、警察沙汰になる。しかし、彼を擁護する人も多い。そんな彼の村にもやがて、開発の波が押し寄せてきて……。そういう話。

 キルギスは旧ソ連領の中でもとりわけ貧しい国で、それは、天然資源を持たないからである。一方、貧しいからこそ利権の取り合いにもならないわけで、内戦も勃発しない。肌の色が違う人々が、こんなに自然に(なんらかのバックストーリーを持たない。アメリカだと、ポリティカリー・コレクトを意識して、自然にやったつもりで不自然になってしまった、みたいなときがあるが、それがないのである)仲良くやっている風景を見られるのが彼の(キルギスの)映画の特徴で、本当に衝撃的に新鮮なのだが、それは、貧しい同士だから肌の色が違うぐらいで抗争しようがないのである。

 原題は『明り泥棒』で、この『泥棒』という言葉は、もちろんねずみ小僧みたいに「義賊」として使われている。プレス資料にテキストを寄せている、在日キルギス大使館職員のチョンムルノフ・チムール氏は「日本語の『明りを灯す人』のほうが映画をよく表している」と書いているが、私は「明り泥棒」のほうが好きだ。明りを作ったのは政府である。本当は、明りはとめちゃいけないものなのだ。「泥棒」という形の、ささやかな抵抗運動を、彼はしているのである。

 それにしても、「電気」というものが、こんなに人を幸せにするものだったんだ! エジソンの発明がそうだったように、電気は当初「照明」として発明された。それは、この映画で暗示されているように、闇だけでなく人々の心にまで明りを灯した。 
 

posted by ishizuka_tomo at 16:02| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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